入浴して


 寝る前にものおもいにふけっている。

 あまりこういう時間にブログを更新したりしなくなったので、ここ数年のこういうのはあんまり形には残っていないな。

 今日はシェリル・クロウを聴きながら新渡戸の「修養」を読んでいた。逆境、ねたみ、糧、読みながらあれこれ思いめぐらしては忘れてしまう。忘れたなりに残ってはいるのだろう。

 きのうは自省録をまた読み返し終わったが、マルクス・アウレリウスも新渡戸も子供を(幼いうちに)亡くしたようだ。皇帝の方は文面そのものからはわからないが、新渡戸は心の整理がついてこうしてみなさんにお話する事ができるまで5年はかかった、というようなことを書いていた。

 話は変わって。

 あることをめぐって、左近はキリスト教を信じているから立ち直りが早いだろう、というようなことを言われていたらしい。落ち込むときは落ち込む。ただ、神を信じていなかったら、たぶん私はもっと深くもっと長く落胆していただろうことは実感として想像がつく。たぶん、何事につけ。
 神が、あるいはイエスが無条件で自分を愛してくれている、気遣ってくれているという感覚がまったくなければ、かなり早い段階で私はどうかなっていた。子供の頃にも。
 神さまには文句を言っても泣き言を言っても、黙って受け止めてもらえる(私はそう思っているので、ここは新渡戸とやや考えが違う)。許してくれる。

 あるいはこうも言える。祈ることで痛みは消えないが、痛みに耐える強さが与えられた。だがその強さは自分のものではない。イエスが代わりに耐えているという感じがする。重荷を負ってもらっている。
 きずは残る。そのきずが私をより大人にする。そのきずを、自分がより大人になるための糧にしようとする。そのきずを、自分と他人を傷つけるようなものにはしない。

 あたりを見渡す。空を見る。空気をかぐ。こうして生きている。と、感覚を外に向ける。

 友人は話を聞いてくれる。知り合いは多い。助けになってくれようとする人も多い。こういうときにわかる。
 孤独は薄れるが消えはしない。それでいい。自分のなかに感謝は残る。孤独とともに残る。無理に解消しようとすべきものではない。

 明日の一日もつらいだろう。嫌なこともあるだろう。だが今日は心配しない。

 そうした一日一日の積み重ねは偉大な勝利の日々。そのことは神がよく知ってくれている。


 会ったこともないあるかたと、そのご家族のことを思って、自分のことを書いている。