ワガハイ


 (昨晩書いたもの)


 不快な記憶とその対象となる人物を現在の自己と切り離して平静に見つめながら、長い廊下を歩く。
 視線は落とさないし、視野は広く保たれている。ただ、その出来事や人物はもはや今の自分とかかわりがないということ、にもかかわらず今の自分の「意識」はこうした数十年の経験と記憶によって存在していることを不思議に思う。

 日曜のこの時間は、駅前に人が少ない。
飲み会の人たちがぱらぱらといるぐらい。

 「わが道は一(いつ)をもってこれを貫く」。

 自分は常にこうでしかあり得なかったし、自分にはこの細い道しかあり得なかった。人と違う道を選びたかったわけではなく、ただ自分はこうだった。

 ある種の優しさをもたなければいけない。その種の優しさは必然的に侮蔑を秘める。相手の器の小ささを前提とするから。が、その寂しさ、自分の冷たさに耐える優しさが必要だ。
 その冷えた寂しさは自分をすり減らす。その摩滅が古典を求めさせ、神を求めさせる。性欲には結びつかない類の寂しさ。友愛はたしかに、しかし遠く存在する。「我を知るものはそれ天か」。そういえば論語も久しく読んでないな。

 知識と思考の構造は複雑化するが、造型はかえって純化してきている気がする、我ながら苦笑するほどに。こうなることが神の御旨なら、おっさんひどいなあ、もうよくわかったから勘弁してたもれと言いたい。責任者出てこい。サムエルは聴きます。