悪、責任感


 あの人の行っている悪に、私は責任がない。自分で自分をおとしめているだけ。私がもう関われることはない。むしろ関わるべきではない。やっていることの意味に気づかせたいとも思うべきではない。気づいて欲しいという思いも祈りの領域に留めるべきだろう。


 アメリカのギャロップ社の提供している分析方法によると、私の最大の特質は責任感らしい。自分が責任を負っていると思う範囲を広げすぎないことが、私には必要と感じる。


 世間にはどうしようもない悪というのが、具体的に、親しみやすい顔をして、身近な人のなかに存在している。そのことにぞっとする。


[書評]幸福否定の構造(笠原敏雄): 極東ブログ

 実際の人生経験からすると、私も半世紀近くこの世にいるのだが、こうした善と悪の問題はそれほど抽象的なものではない。


 マタイ10:14(リビングバイブル)

 あなたがたを受け入れない町や家があったら、そこを立ち去る時、足からその場所のちりを払い落としなさい。

 パッパッ、あばよ、と笑顔で。


 使途の働き18:6(リビングバイブル)から

 パウロは、彼らときっぱり縁を切るしるしに上着のちりを払い、こう言い放ちました。
「おまえたちの血の責任は、おまえたちに降りかかれっ! 私のせいじゃない。

 パウロは激しい。激しいが、相手のことを思っているからこそ、そこまで真剣に関わっていたのだった。それをないがしろにし続けるのは、もはや相手の責任。


 私の場合、縁を切るということが難しいな。席も近いし。それがモンダイだ。ミス・マナーズ的笑顔で行くしかないかな。